鬱なう

どうも私です。
時差ぼけとおばちゃんのいびきのせいか眠れないのでブログを書こうと思いました(逆効果)
ウジウジしすぎやろ死ねって思うはずなので読まなくていいです。

ちょっと前に、過去のツイートを好きな期間の分遡って見れるやり方を知って見てたんですよ。高校の受験期とか、すごいなつかしいなあと思いつつ。
そしたら、受ける学域とか塾の話題とかについてのときに、お母さん大っ嫌い、お父さんのほうがマシ、みたいなことを書いてたんですよね。

最近の自分を考えてみるとえ?うそやろ?って言いたくなるようなツイートだったんですけど、まさにこれが「あのときは子供だった」って感覚なのか!と思いましたね。

なんでこんな話をしてるのかよくわからないんですが、休学して数年ぶりの実家暮らしを再開してからというもの、2,3回生のとき以上にたぶんお母さんを好きになってしまったんですよね。

四万十であえなく敗退した四国旅のときも、なんだかんだ楽しかったけど歩いてる人はひとりもルート上で会わなかった北海道旅のときも、寂しくなったときはすぐお母さんが頭に浮かんできて、いつもLINEしてたんですよね。(友達がいないともいう)

あんまこういうこと書くのよくないんだろうけど、9月?にけっこうなダメージを負う失恋したときもそうだったんですけど、結局自分のことを最後まで一番に思ってくれるのって親なんだなあ、と思って。
私の場合はお母さんのほうがよく話すのでお母さんに対してよりそう思うんですが、、

しんどかったらゆっくりしたらええやんとか、嫌になったら帰ってきたらいいやんって、お母さんに言われるだけでほんと、すぐ泣いちゃうんですよね。
そうやって優しくされればされるほど、ヘンに完璧主義な自分はクソみたいな意地を張って、義務感に苛まれながらやり終わって「あんだけ言われてても最後までやったった!」ってクソみたいな満足感を得ておしまい、みたいな。
探検部のせいにするわけじゃないけど、楽しいことだけを選んで素直に楽しんでやるってことがすげえ下手くそなんです。いかにキツい、苦しいことをやったかっていうので物事をはかってきたので。
まあ、だからこそ最近のトレッキングとかハイキングの雰囲気に憧れてるのかもしれませんね。必要に迫られる撤退じゃなくて、しんどいことを避けるための積極的な撤退もアリなんだなみたいなところがある気がするから。

なんの話かほんとわかんないんですが、寝れなくて今後のプランとか改めて頭の中で考えてたら、あんまり行きたいとは思わないけど計画に組み込んだ国立公園行くのやめようかな、とか、帰りの航空券早いのに変更できないかな、とか考え始めてしまって、結局おかーさんに会いたいってことになって号泣してるって話です。
出発直前に一緒に撮った写真(私だけ目を泣き腫らしてる)見てたら余計に泣けてきてもうなんかやべーっす。


こんなことならアラスカは憧れのままにして、いつかのために大切にとっておいて、みんなと一緒に就活すればよかった。就活に興味がないわけじゃなかったから、就活すればよかった。卒論だって興味ある分野はだいたい定まってきてるんだから、文献探してじっくりひとつに絞っていけばよかった。アラスカを夢見ながら、就活と勉強を頑張ればよかった。


何回もそう思ってるし、今もそう思ってます。
これはたぶん誰から見ても、贅沢すぎてクソみたいな悩みだと思います。

たぶん、1ヶ月前、もしくはもっと前から、「行きたい」に「行かなきゃ」が覆いかぶさってきてたんだろうなと思います。
アラスカに行くっていうことが起こったきっかけはもちろん「行きたい」のはずだったけど、実際に「行く」っていう実現化をはかったことは、自分にとって本当に正解だったんだろうかと。その実現化のせいで、「行かなきゃ」に変わってしまったんじゃないのかと。
2ヶ月ちょっといってきます!なんて言いふらしてまわってなければとも思ったけど、それぐらい行かないと1年休学した意味がないんじゃないかと。後に退けないようにするために言ってまわってたんちゃうんかお前はと。いや後に退けないようにせなあかんぐらいのことやったらもうやめてまえよと。
いますごくそう思いますが、誰かに宣言した以上は、私にとってはやっぱりやり通さなかっこ悪いし、情けないと思うんですよね。
あと、人にすごいねって言われたいからっていうのもあるんでしょうね。アラスカっていう意外性ですごいと思わせたい自分がいることも否定できないのでもうすでにかっこ悪くて情けなかったです。


ひとりでなにもかもが未知数の世界に飛び込むことがこんなに怖くて寂しいことだとわ。

まあこんなところに吐き出してるあたり、まだまだ構ってちゃんの甘ったれですな!
そして泣き疲れて寝れるかと思ったけど眠くないですな!
明日街に出れる気がしない‥‥‥‥。