トイレが塩素くさいなう

どうも私です。
郵便局へ行くのと昨日教えてもらった自然保護区的なところへ行くのを考えていたのですが、雲が厚すぎていまだホステルにいます。あと何日いなきゃならんのだ?

こないだもちょっと書いてたんですが、デナリ以降自分のこれからについてもんもんと考える日々が続いててもんもんとするので、なんとなくまた書きます。なんでもかんでも自分の頭の中を垂れ流すのは、っていう思いもあるのですが、私は文章をだらだら書くのが好きなのです。知らんがな。


アラスカは、もうその単語を聞いただけでしびれちゃうような、憧れの存在でした。アラスカ、と、文字にしたり口にしたりするだけでいい気分になりました。きっと行けば、素晴らしい自然を堪能できて、その自然が大好きな心優しい現地の人たちとの交流があって、よりいっそうアラスカが好きになるんだとすっかり信じこんでいました。

結果はいままでのブログの通り、まあ第三者からすれば当然っちゃ当然な感じになりました。自然は素晴らしいけど素晴らしいだけでなくそれ以上に厳しさがあって、優しい人もいればえ?そんな感じなの?みたいな人もいて、アラスカを好きになるどころか逆に日本への愛が深まる日々。アラスカというより、アメリカという国、そこに集まる人々をこの目で直視して、すっかり心身ともに疲弊しました。ただ私がなまっちょろいだけなんですけどね。

探検部のころからひそかにそうだったのですが、私はどうも身の丈に合わず(身長的な意味ではないです)デカいこと、変わったことを望む傾向にありました。人が思いつかないことをやりたい、意外性を武器にしたい、とか。あ、青くさ!
それを具現化すると、アラスカの原野を旅したいとか、ユーコン川を下って国境越えしたいとか、ラップランドを歩きたいとか、日本のロングトレイルをもっと発展させたいとか、日本の国立公園のシステムをもっと発展させたいとか、個人単位から国単位にまで夢が広がるわけです。とてもえらそうです。

それで手始めにアラスカに来てみたわけですが、英語は通じない、理解できない(これに関しては単なる努力不足ですが)、軽いコミュニケーションがとれない、「来た」という時点で十分に満足してるのでそれ以上活動する気力も体力もない、生活における文化の違いを受け入れられない、などのないない尽くしによってあっさり私の壮大な幻想なんぞは打ち砕かれたんですね。自業自得とはまさにこのことです。

長い人生の中でたった1年間、と思って休学を決めましたが、さらにその中のたった2ヶ月半の計画さえ遂行できず、アラスカにおける旅としてのクオリティというか理想をどんどん下げていることに対して、ほんとうに情けなく感じます。
いざ就活となったときに、1年休学してやったことはたった1ヶ月アラスカに行っただけでした、って言うのかと思うと、余計に情けなく、恐ろしく感じます。

でかいこと(と思っていること)を少なくとも一人ではできない、楽しめない自分に気付いたとき、それを認めることはなんて死にたくなることなんだろうと思いました。
やってみなきゃできないかどうかも分かんないと口ではよく言っていますが、実際できないということがわかると、なんで正確に予見しようとしなかったのか?と、過去の自分をぶんなぐりたくなります。


私にとっては、高尾山を一人で登りに行くぐらいまでが、純粋に楽しめるということの上限なはずなんです。
それなのにアラスカアラスカ言ってたのは、かっこつけたかったからなのか、すごい奴だと思われたかったからなのか、変わってるなあと思われたかったからなのか、よくわからないけど、全部当てはまってると思います。


滞在を1ヶ月に縮めることで、これ以上うじうじしないと決めたものの、やっぱり自分は「ウダウダ自分探し系しかし意気地はない人間」であるということを改めて意識してしまうたびに、うじうじしてしまいます。
そうできる状況にあるのだから楽しいことだけを選択していけばいいという理屈は頭にあるのですが、たぶん私はこの先の人生、うじうじの輪廻から逃れることはできないんだと思います。

動物写真家を目指す例の方に会ってさらに、現在進行形で自分が中途半端の具現のように生きていることを実感しました。逆にすごいと思います。

悪い意味でのプライドとか見栄とかから解き放たれて生きたいと思うなうです。


色んなシチュエーションでクマが出てくる夢と、わけのわからないサイコもしくはSF的殺人事件に巻き込まれる夢を見てから頭がどんよりしている私でした。
郵便局‥